日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年4月15日日曜日

◆移籍組の名良橋晃は「相手PKに ガックリしただけで雷を落とされた」(Sportiva)


遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(7) 
名良橋晃 前編




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 4月3日、上海。ACL第5節、上海申花とのアウェー戦は苦しい試合だった。「前半の悪さは今のうちのチームの課題。それを改めて感じた」と鈴木優磨が振り返ったように、セットプレーから2失点しただけでなく、内容的にも相手に圧倒された45分間。球際でもまったく勝てず、腰が引けた戦いが続いた。

「相手は後半になると運動量が落ちる」。ハーフタイムに大岩監督が激を飛ばす。「スカウティングから『両サイドの強度が下がる』という情報があり、そこを突こうとスイッチを入れた」

 その後半、分析どおり相手の勢いが止まったこともあったが、鹿島の選手それぞれが球際での勝負に勝ち、鈴木の1ゴール1アシストで2-2とし、ACLグループリーグ突破が決まった。

「球際の勝負から逃げていたら話にならないし、まずは球際で戦うことなど、当たり前のことをやろうとハーフタイムに話し合った。そのうえで、マークをはっきりさせたことでよくなったと思います」(植田直通)

 この日先発出場した小笠原満男の言動が選手たちの心と体を動かしたという。

「今日は(昌子)源くんもいなくて、(金崎)夢生くんもベンチスタート。出場した若手が試される試合だった。そういうなかで誰が引っ張るとかではなく、年齢に関係なく誰もが『自分が引っ張っていく』という気持ちで戦えば、今日の後半みたいにいいサッカーができる。

 最近は自分も含めて、他人まかせというのがあったと思う。試合前に満男さんと『うちのチームにヒーローはいらない』という話をした。チームの勝利のために自己犠牲を払ったプレーが大事だと。今日も満男さんが先発し、変わったと思う。一番年が上の満男さんが一番走っていた。自分も負けたくないという気持ちになるし、あの人が走っているのに、なんで、俺ら若手が走れないんだという気持ちになる。満男さんはプレーで引っ張っていく人。間違いなく、俺らにそれが伝わっているし。俺らがもっとやらないといけないなって気持ちにはなっています」

 そう語る鈴木に笑顔はなかった。グループリーグ突破という最低限の結果を手にしただけ。選手たちにほっとした様子はない。そして、ミックスゾーンを歩く小笠原も厳しい表情を浮かべている。こちらの声掛けにもその表情は変わらず、わずかに顔を左右に振るだけだった。

 この後すぐに苦しい試合が続くリーグ戦があり、ACL首位突破がかかる4月17日の水原戦と連戦が続くなか、表現できなかった戦う姿勢やチームのためにという想いを取り戻せたような予感があった。

 *   *   *

「鹿島時代にも経験しましたが、選手同士が要求し合っている。要求するからには、自分もしっかりとプレーしなくてはいけない。そういう雰囲気が今、チームにあります」

 4月1日、J3第5節でSC相模原を2-4で破り、4勝1分として首位に立ったガイナーレ鳥取の森岡隆三監督は、自身が所属した鹿島アントラーズを例にとり、好調なチームについて語った。

 1997年、ベルマーレ平塚から鹿島へ移籍した名良橋晃も加入直後の練習から、森岡同様の空気を肌で感じていたという。

――1997年に移籍が成立しましたが、その前シーズンから鹿島への加入を熱望されていたそうですね。

「はい。当時は移籍係数ルールがあったりして、契約満了となってもなかなか移籍が難しい状況でしたが、どうしても鹿島でプレーしたいと思っていたので、強くアピールしていましたね」

――その理由には、ブラジル代表のサイドバックを務めていたジョルジーニョの存在があったというのは有名な話ですが、それ以外にも理由があったのでしょうか?

「そうですね。いくつかの理由がありました。1992年にJリーグ開幕を前に、カシマスタジアムを扱ったテレビ番組を見て、いつかこのスタジアムでプレーしたいと思ったのが最初でした。クラブハウスにも行く機会があり、こういう恵まれた環境でサッカー選手としての生活が送れたら、どんなに素晴らしいだろうという憧れもありました」

――1989年、高校を卒業後、当時JSLのフジタに加入されたわけですが、フジタは翌シーズンに2部に降格してしまい、Jリーグ参加も認められなかった。1994年にやっとJリーグに昇格し、秋には日本代表デビューも飾りました。

「カシマスタジアムのピッチに立ったとき、サポーターも含めたスタジアムの雰囲気に圧倒されました。試合中には平塚の一員として、いつも以上に高いモチベーションでプレーしましたが、鹿島のサポーターの後押しを受けてプレーしたいという気持ちを抱くようになりました。同時に招集から外れていた日本代表に復帰するうえでも、鹿島のような強いチームでレギュラーになるべきだとも考えるようになったんです。相馬直樹と同じ方向を向いて戦いたいという気持ちもありましたね」

――念願が叶い、鹿島の一員になったわけですが、最初の印象はどんなものでしたか?

「契約が完了したあと、キャンプを行なっているブラジルへ飛びました。砂浜でトレーニング中のチームに合流したとき、ジョルジーニョが『こっちこっち』と呼んでくれ、感動しましたね。そのキャンプのときから、戦いの日々が始まりました。

 まずは、僕を受け入れてくれたクラブへ恩返しするためにも、右サイドバックを務めていた内藤(就行)さんとのレギュラー争いに勝たなくてならないですからね。とにかく選手同士が厳しく要求し合う様子が印象的でした。チームメイトに要求するのだから、自分がヘタなプレーはできない。そういう覚悟を感じました」

――当時の鹿島の練習といえば、笑顔もほとんどなくて、厳しい時間だったと記憶しているのですが……。

「そうですね。練習中はピリピリとした空気がありました。紅白戦をやっても、Bチームの顔ぶれがすごかった。ヤナギ(柳沢敦)やヒラ(平瀬智行)など、高校選手権で活躍した選手や力のある若い選手がたくさんいて、すごいところへ来たんだと、改めて感じました。そして、いかにこれまでの自分の意識が低かったのかを痛感したし、甘えがあったと恥ずかしい気持ちにもなりました」

――けれど、レギュラーポジションを手にし、代表にも復帰しました。

「それでも気を抜けば、ポジションを失いかねないという危機感はずっと抱いていましたね。それは内田篤人が加入したときまで続きましたよ。だけど、こういうライバルの存在が自分の成長に繋がると実感していました。そういう毎日を過ごしていたので、代表へも必ず復帰できるという自信がありました」




――1997年には、ワールドカップフランス大会出場権を獲得。その後、Jリーグではナビスコカップ決勝(11月22日、29日)とチャンピオンシップ(12月6日、13日)でジュビロ磐田と4連戦を戦いました。

「僕はナビスコカップ決勝第1戦(1-2、鹿島勝利)で退場してしまい、5-1で勝利して優勝を決めた第2戦には出場できなかった。”初タイトルを”と挑んだチャンピオンシップでは、第1戦を延長Vゴールで落としてしまい、カシマスタジアムでの第2戦では、81分にゴン(中山雅史)さんにゴールを許して、タイトルを逃してしまった。試合内容で圧倒しながらも、勝てなかったので本当に悔しかった。

その直後の天皇杯で優勝し、やっとタイトルを手にして、鹿島に恩返しできました」

――その年から、鹿島と磐田との2強時代が始まりました。

「ゴンさんと秋田(豊)さんをはじめ、各ポジションでバチバチの戦いを繰り広げていましたからね。あんな熾烈なカード、今ではあまりないかもしれませんね」

――2000年には三冠を達成しました。勝利にこだわる鹿島の姿勢を感じる試合として、印象に残っているものはありますか?

「2001年、ワールドカップ前に大きくなったカシマスタジアムのこけらおとしの試合ですね。(5月19日/第10節)柏戦だったんですが、2-2で迎えた延長戦、開始早々(延長前半5分)にPKを与えてしまったんです。そのとき、僕は内心『負けてしまった』と思ったんですが、ソガ(曽ヶ端準)がそれを止めてくれて、その直後(延長前半8分)に長谷川(祥之)さんのゴールが決まり、勝利しました。

 試合後にトニーニョ・セレーゾ監督から『PKを与えたとき、もうこれで試合が終わったような態度をした選手がいた』と雷を落とされた。僕のことです。そういう振る舞いをするだけで、チームに悪影響を与えると怒られたんです。最後の最後まで勝利を諦めるなということをつくづく思い知らされました。

 当時の選手たちは勝つためにはなんでもやるという気概がありました。リードしている時間帯、ファールで倒されたとき、少しでも時間を稼ぐことを考える。フェアプレーという意味ではよくないのかもしれないけれど、勝つことが重要だった。そういう気持ちが漲(みなぎ)っていました。それは練習中の厳しさを生んでいましたね。

 1対1、球際では絶対に負けない。そういうファイターが揃っていた。戦えない選手は勝てない。高い集中力があれば、セカンドボールにも速く対応できるんです。そういう細かなこだわりが勝利に結びつく。それはチームだけでなく、クラブにも宿っている精神だと思いました。スタッフ、職員、洗濯や掃除をしてくれる人たちもそういう気持ちだった。戦うことの重要性、闘争心を肝に銘じる。そんな時間を鹿島で過ごしたと感じています」

(後編につづく)


移籍組の名良橋晃は「相手PKにガックリしただけで雷を落とされた」



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