日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年3月11日日曜日

◆中田浩二「アントラーズの紅白戦は きつかった。試合がラクに感じた」(Sporiva)




遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(3) 
中田浩二 前編




「プロになったら、競争は当たり前。先発とかベンチとか、そういうことで気持ちが揺れたりはしません。チャンスが来たら、自分のプレーをするだけです」

 3月3日、今季の公式戦初勝利を飾った土居聖真は、淡々とそう語った。このガンバ戦ではアグレッシブな守備と連動する攻撃で、相手陣に攻め入った鹿島の攻撃軸として、存在感を示した土居は1-0の勝利に貢献する。

 また、ボランチを務めた三竿健斗は「前節の清水戦直後から、選手同士で修正点をたくさん話し合った。その成果が出たと思います」とも話していた。

 選手間の濃密なコミュニケーションが試合の質に大きな影響を与えていた。それは試合に出た選手だけではない。

 3月7日のACL第3節シドニーFC戦、敵地のピッチに立ったメンバーは、4日前のガンバ大阪戦から8人も入れ替わっていた。

 相手の攻撃を凌ぎ、好機を待つ……彼らがそんな鹿島らしい戦いを演じる。チャンスを得た若い選手たちは自己アピールよりも、チームとしての戦いを第一に思考していたのだろう。0-2とアウェーながら完勝した鹿島は、無敗でグループリーグ首位を走っている。

 2014年に現役を引退。現在は鹿島アントラーズ事業部に所属し、クラブ・リレーションズ・オフィサー(C.R.O.)を務める中田浩二。フランス・マルセイユ、スイス・バーゼルでプレーした経験を持ち、2002年ワールドカップ日韓大会の代表メンバーでもある。

 1999年にワールドユース(現U-20ワールドカップ)で準優勝を果たし「黄金世代」と呼ばれる1979年生まれだ。小笠原満男、本山雅志(北九州)、曽ヶ端準、山口武士(エンフレンテ熊本スポーツクラブコーチ)、中村祥朗(HOUKOKU FC)とともに高卒ルーキー6人衆のひとりとして、1998年鹿島に加入した。

――現在はスポンサーの方との仕事も多いと思いますが、「鹿島アントラーズ」には強固なブランド力があると感じます。

「Jリーグ初年度のファーストステージで優勝し、ジーコがもたらしたスピリッツを証明できたと思います。当時のスタッフがそれを大切にし、今に至るまで、そのスタンスをずっと変えずに来たことが大きいと思います。

『勝利へのこだわり』を持ち、『強いチーム』として結果を残してきた。鹿嶋という場所柄、勝たなくちゃいけないという現実があった。弱ければ、試合を見に来てくれる人はいないだろうし、選手も集まらない。だから、クラブ全体がトップチームの勝利のために力を尽くしている。サポーターはもちろん、スポンサーの方々もいっしょに戦ってくれている。それを引退後、痛感しています」

――新人選手として感じた鹿島の「勝利へのこだわり」とはどういうものでしたか?

「当時、本田(泰人)さん、秋田(豊)さん、相馬(直樹)さん、名良橋(晃)さんと、日本代表選手がたくさんいるレベルの高い環境だということは自覚していました。

 たとえ練習であっても、ちょっとしたポジショニングが違っていたり、サボるとすぐに怒られる。誰かが手を抜いて、チーム内の共通理解が壊れたら、試合ではそこを突かれてしまう。練習から試合を想定しているので、曖昧な状況を許さないんです。練習中からたくさんの議論があり、選手それぞれが『チームの勝利のためになにをすべきか』を考えていることが伝わってきました」

――選手同士、要求をし合っていると……。

「自分がこういうプレーをしたいからというんじゃなくて、すべてが『チームのため』という前提があった。しかも、誰かが一方的に訴えるだけじゃなく、話し合っているんです。『こういうポジションをとってほしい』『だけど、そこはこうなんじゃないのか?』と、お互いをリスペクトしたうえで、納得するまで話し合う。

 それは練習後にも続きます。10分で終わることもあれば、マッサージを受けながら1時間続くこともある。同じ意識を共有するために、濃いコミュニケーションを日々行なっているので、試合でそれを落とし込める。選手がチームの勝利に真剣に向き合っていると強く感じました」

――そういう輪のなかには、新人だと入りづらいですよね。でも、試合出場することを考えたら、そのコニュニケ―ションに加わらなければならない。

「もちろん、最初はビビッているところもあるから、自分の意見なんて言えなかった。でも、話さないとわからないことを理解してもらうこともできない。そういうとき、奥野(僚右)さんが、『お前はどう思うの?』と声をかけてくれるんです。そうして話し始めても、『お前は1年目なのに、生意気な』というような空気にはならない。みんなが僕の意見を聞いてくれる。

 そして、『お前はそう思ったかもしれないけど、こういうときにはこういうやり方もあるんだ。だから、お前はそうしなくちゃいけないんだ』と話してくれる。僕も『なるほどな』と気づける。そういう教えを重ねて、自然と自分が試合のなかで何をしなくちゃいけないかが明確になってくる」

――当時、柳沢敦(鹿島コーチ)さんが「どんなに幼い子どもであっても、その子の意見に耳を貸さなくちゃいけない」とジョルジーニョに言われたと話していました。そういう空気が鹿島にはずっと漂っているように感じます。ご自身がベテランになったときも、それは大事にされていましたか?

「もちろん。話しづらいだろう若手にもこちらから声をかけるし、彼らの意見も大切にしました。コミュニケーションがなければ、勝利のためにチームがひとつにはなれない。だから、議論を省略することはできないんです」

――中田さんの同期は6人の選手がいて、普通に考えたら、ライバルが多い状況ですよね。しかも強豪クラブだから、競争は激しい。

「よく6人が集まったなと思います。でも、きっと誰もが『自分は試合に出られる』と思っていたはず。鹿島は簡単に試合に出られるような環境ではなかったけれど、そういう競う同期がいたから、奮起し続けられた。

 僕が最初に試合に出た。そうなれば、ほかの選手は『負けたくない』とトレーニングをしただろうし、その後、満男が出れば、僕はやっぱり悔しかった。だからといって、練習で削ってやろうなんて思わない。満男がレギュラー組と話していたら、『どんな話をしたの?』と聞き、逆の立場で聞かれれば、隠すことなくすべてを話す。そんなライバル関係があったからこそ、自分が伸びていると実感できました」

――同期がみんなBチームだったとき、トップチームとの紅白戦で、「いかに勝つかと必死だった」と小笠原選手が話していました。Bチームも「勝つために」という意識だったんですね。

「紅白戦はきつかった。だから、試合に出たとき、ラクだなって思うこともありましたから。ライバルがいて、厳しい競争がある。同期のあいつらがいてくれて本当によかった。だから、やめるときは、ちょっと悔しさがありましたね」

――鹿島でプロとしてスタートし、鹿島で現役を終えた。そんなキャリアを今、どう考えていますか?

「チームメイトもそうですけど、スタジアムに来てくれるサポーターからのプレッシャーもある。それを常に感じながら、サッカーができたことを幸せに思います。プレッシャーがあるから、努力もできた。この環境じゃなければ、甘えが出て、成長できなかったかもしれない。

 日本ではここしか知らないけれど、ここでずっとサッカーができたことは、自分のキャリアのなかで大きな意味があると感じています。鹿島じゃなければ、日本代表にもなれなかっただろうし、これほど長くプレーできなかったんじゃないかと」

――そういう環境を今後も継続していくことが鹿島の未来にとっても大きいですね。

「はい。サポーターもスポンサーも本気で応援してくれる。そういう環境を今まで作り上げて、積み上げてきたのがアントラーズです。クラブの事業部の一員として、今後もそこは求めていかないとダメだと思います」

(つづく)

中田浩二「アントラーズの紅白戦はきつかった。試合がラクに感じた」








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