日刊鹿島アントラーズニュース

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2018年4月24日火曜日

◆レオシルバは知っていた。「鹿島? ジーコがプレーしたクラブだろ」(Sportiva)





遺伝子 ~鹿島アントラーズ 絶対勝利の哲学~(9) 
レオシルバ 前編


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 4月14日、Jリーグ第8節・鹿島アントラーズ対名古屋グランパス。負傷で離脱していた内田篤人と昌子源が先発に名を連ね、勝利を飾った鹿島。リーグ戦2連敗、相次ぐ負傷者で苦しんでいたチームに光が差した。

「篤人の復帰は大きい。チームに自信と安心をもたらしてくれた」と小笠原満男。「プレーでチームを引っ張っていきたい」と今季移籍加入した内田だったが、リーグ開幕戦以降、筋肉系のトラブルで離脱せざるを得なかった。

 この試合では、試合開始早々に攻撃参加や前線へのパスを配球している。「前半、試合の入り方が悪く、苦しんでいたから、前への意識をチームにもたらしたかった」と内田は話している。身体を張った泥臭い守備でも闘争心を示した。2枚目のイエローカードを危惧し、自ら申し出て途中交代したあともベンチで、途中出場するチームメイトにアドバイスした。内田は自身の立場を自覚して、その任務を果たし、移籍後初めての公式戦勝利を味わった。

 しかし、4月17日のACLグループリーグ第6節、1位突破には引き分け以上の結果が必要だった水原三星(韓国)との上位対決は0-1で敗れ、グループ2位となってしまう。ケガ人は8人を数え、出場機会の少ない選手を先発起用したものの、連係面でのミスや個人的なミスが目立ち、試合後、昌子が若いチームメイトへ苦言を呈した。いつも、選手間での厳しい要求が必要と語る昌子らしいコメントだった。

「仲間を非難するつもりはないけれど、『レギュラーを奪ってやる』というようにミスを恐れないプレーがなかった」

 サブ組という立場を自覚し、やるべきことをやり抜かなければならない。訪れたチャンスを掴むためには、奮起一番のプレーが求められる。もちろん、チャンスを得た選手たちのモチベーションは高かったはず。だが、それをピッチで表現できなかった。重要な一戦だからこそ、まずは自身が担うプレッシャーに勝たなければ、仕事はできない。ホームでの敗戦という結果は、起用された選手たちに競争の厳しさを改めて突きつけることになった。

 Jリーグで唯一、ACL決勝トーナメント進出を果たした鹿島。しかし、過去に決勝トーナメント1回戦を突破したことはない。昨年はACL敗退後に監督が交代している。過密日程で勝利を飾り、乗り切るためにもサブ組の躍進は必要不可欠だ。

 リーグ戦連敗ストップの喜びもACLの敗戦でリセットされた。チームとしても、また新たな気持ちで、4月21日、強敵・川崎フロンターレとの一戦へ向かう。

 *     *     *

 鹿島アントラーズのDNAのなかに、「ブラジル」があることは間違いがない。ならば、ブラジル人選手にとって、鹿島アントラーズとはどんな存在なのか? アルビレックス新潟から移籍加入したレオシルバに訊いた。




 取材をしたのは3月上旬のことだ。ACL初戦、そしてリーグ開幕戦と2試合続けて、レオシルバは相手にPKを与えてしまう。それをGKのクォン・スンテが好セーブで得点を阻止した。

「スンテ選手にコーヒーをおごったり、しなかったのですか?」
 
 そんなこちらの軽口を耳にするなり、レオシルバはまくしたてるように言う。

「シュートを止めるのはスンテの仕事でしょう? 僕があそこでシュートブロックしなければ、失点していたかもしれない。僕は他のチームメイト同様にスンテのことを信頼しているから。(PKを)止めてくれたからといって、特別なことはしないよ。僕がボール奪取するたびに、ボールロストした選手に『コーヒーをごちそうして』なんて言わないから……」

 そんな話を聞きながら思い出したのは、海外でプレーする日本人選手から何度も聞かされてきた外国人選手の「負けず嫌い」ぶりだった。そして、目の前にいるレオシルバからは、非を認めない傲慢さではなく、悔しさも不甲斐なさもすべてをひっくるめても「負けを認めたくはない」という負けず嫌いなスピリッツが伝わってきた。

――鹿島アントラーズのことは、いつ頃から知っていましたか?

「ずいぶん、昔から知っています。ジーコが住友金属でプレーしたこともブラジルでは誰もが知っているし、そのチームが鹿島アントラーズになったことも。『鹿島アントラーズ? ああジーコがプレーしたクラブだろう』という感じです」

――ご自身が日本でプレーすることになると、10代の頃、考えたりはしましたか?

「今思えばという感じですが、実は僕が初めてブラジル代表に選ばれたのが、U-20代表でした。2004年の夏に、日本で行なわれる大会に出場することになったんです。本当に嬉しくて、やる気満々で日本へ来ました。にもかかわらず。大会が始まる直前にヒザを痛めてしまったんです。だから大会中はずっとベンチで試合を見ていました。観光に来たようなものです。本当に落胆しました。

 日本代表とも対戦したと思うけれど、当時はまだ若く、初めて代表でケガをしてしまって。異国の地にいて、相手チームのことを見る余裕もなかったです。覚えているのは、とても暑くて、帰りたくてしょうがなかったこと。人生のなかで一番の暑さを日本で経験しました。だけど、そんな日本でこうやって暮らすようになるとは、不思議な縁を感じています」

――Jリーグでプレーしていた知人などからの日本の情報はどんなものでしたか?

「柏にいたマルシオ・アラウージョなど、日本に行った選手たちは、非常にたくさん日本の話をしてくれました。しかも、ただ『いいところだよ』というのではなく、『非常にいいところだ』って言ってくれた。だから、実際のオファーを受ける前から、日本の国、リーグ、クラブのオーガニゼーションや治安の良さなど、日本に対しては好意的な印象を持っていたんです。

 ユース代表で行ったときも、とにかく接する人たち、ホテルや町の人たちが、僕らをとても歓迎してくれたことは印象強く残っていました。言葉はたしかにわからないけれど、教育や道徳がしっかりしている国民なんだという強い印象がありました」




――来日して、アルビレックス新潟でプレーをすることになるわけですが、不安はありませんでしたか?

「まったく、迷いも不安もありませんでした。もちろん、言葉の問題があることは周囲からも言われていたことで、覚悟もありました。でも、初日から安心してプレーできたし、時間の経過とともに、だんだん居心地の良さを実感するようになりました。後悔は一切していません」

――今では、レオシルバさんが、ブラジルの選手たちに「日本はどうだ?」と訊かれるのでは。

「そうですよ。『日本は非常によい』という情報を与える立場になっています」

――新潟でプレーしていたとき、いつか鹿島でという気持ちはありましたか?

「私はいつも、常に高い目標を置いてやってきました。なので、いつか、日本の大きなクラブでタイトルを獲りたいという気持ちはありました。その目標を達成できた自分を誇りに思っています。

 でも、新潟が小さいクラブだとか、今は2部だということじゃなくて、新潟への敬意や愛情は今も変わらずあります。私がここへ来るまでの過程において、重要なクラブだったという事実は変わりませんから。たくさん面倒をみてもらいました。

 だから、新潟を離れるのは心苦しいし、心が痛みました。でも、『アントラーズで優勝したい、タイトルを獲りたい』という新たな目標があったし、鹿島で結果を残したいという強い気持ちがあったので、気持ちの整理をせざるを得なかった。新潟への愛情は横へ置いています。

 そして、鹿島の人たちも僕を歓迎してくれて、面倒をみてもらっています。だから、アルビレックスと同じように、鹿島にも強い愛情を抱いています」

――新潟時代に鹿島とも対戦していますが、そのときの印象は?

「正直、難しい試合が多かったですね。とにかく強かった。勝った覚えがなくて、ほとんど引き分けか負けだったように記憶しています。でも、そのとき対戦した経験があるので、鹿島の選手たちについての情報も持っていました。だから、鹿島の選手になったとき、スムーズに溶け込むことができたんだと思っています」

(つづく)



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